私が教会に行くようになったキッカケをお話しさせていただきます。
長文になってしまい申しありません。
ご興味ある方はお読みいただけたら幸いです。

 

私はとある町の丘の上団地に40年以上住んでいます。これまで徒歩で行ける近隣には教会がなかったので、現在、自分の通う教会が徒歩圏にあることをとても嬉しく思っています。

私の実家は、宗教的には仏教徒を名乗っているものの、お正月は神社へ初詣に行き、クリスマスは家でパーティーをし、サンタさんがプレゼントを持って来てくれる、そして祖父母のお墓は地方のお寺にあり、何年かに一度、お葬儀や法事のためだけに行く、といった、日本ではごく一般的な家庭でした。

 

幼少期…

私の幼少期の宗教体験として、仲良しの友達に誘われて仏教系の教会の鼓笛隊に通っていたことがあります。友達と一緒に鼓笛隊の活動をしたいだけの気持ちで通っていました。

会堂は大きな座敷で仏像があり、その前に正座して数珠を持ってお経を読む時間がありました。また、練習の前や食事の前には全員で決められた祈祷文を唱え、お祈りのようなことをしていました。

そこには二年半くらいの間、毎週通っていましたが、ある時期から母親に強く反対され、行くことを断念しました。大人になってから聞いた話では、私が鼓笛隊に参加するために、友達の家がその宗教団体にお布施のようなものを払っていたことを知ってしまったので、それ以上通わせられなかったということです。

 

キリスト教の教会に行くきっかけ

そんな私が、初めてキリスト教の教会に行ったのは、大学4年生の時でした。大学では音楽教育を専攻しており、中学か高校の教員になる道を探っていました。

そんなある日、大学の掲示板に、とあるミッションスクールの非常勤講師の募集を見つけました。その募集要項には「当校と同じ福音教会会員、または求道中であり、そのことが牧師の推薦状によって証明できる者」という条件が提示されていたのです。

幸い当時住んでいた自宅のすぐそばにその学校と同じ系列の福音教会がありました。私はその推薦状をもらうために、教会に通い始めました。

当時、三浦綾子さんの小説やエッセイを何冊か読んでおり、その中にはキリスト教会の礼拝の様子も描かれていましたので、教会に足を運ぶことに違和感や抵抗は全くありませんでした。

 

行ってみたら…

その教会の青年会では、聖書の科学的解明というような学びをしていました。詳しいことは忘れてしまいましたが、ノアの方舟で洪水があったことが歴史的事実であるという証拠を検証していてとても面白かった記憶があります。

そのとき思ったのは、お経は読んでも意味がわからないけれど、聖書はわかる言葉で書かれているから易しいということ、仏教の祈祷はいろいろ手順や決まり事が多いけれど、教会の祈りは自分の言葉で好きなときに好きな場所で祈ればよく、シンプルでいいなということでした。

ただ、当時は信仰には興味がなく、自分の目的が果たせれば良かったので、推薦状をいただいた後、失礼のない程度に一定期間礼拝に通い、卒業と同時に転居を理由に教会からも離れてしまいました。応募した教員の選考では書類審査で落とされました。

 

再び教会へ

そして、次に教会に行ったのは5年後でした。私は結婚して子どもが生まれていました。

まず、私の夫が、仕事でお世話になっていたクリスチャンの方の奨めで、当時の自宅付近の教会に通い始めました。学生のときに行った教会とは違う教会ですが、私も彼と一緒に赤ん坊を連れて再び、今度は夫婦での教会生活を始めました。

当時、私は初めての子育てで、しかも経済的に余裕がなく、一歳にならない息子を保育園に預けて働いており、いろいろ不安がありました。

しかし、教会の方たちが、祈りながら子育てをしている姿を見て、励まされ、とても素晴らしいと思いました。夫は3ヶ月、私は半年ほど求道して洗礼を受けました。

数年、そちらの教会にお世話になりましたが、その後は転居し、最終的にとある教会の前身のとある中央教会に通うようになり現在に至ります。

 

イエス様の愛とは

聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない。」と書かれています。しかし、神様はそんな罪人である私たちを放っておかず、イエス様を通して「私はあなたを愛している」と教えてくださいました。

神様が私たちに求めておられるのは、自分の力で良い行いをしようと努力することではありません。自分が無力な罪人であることを認め、イエス様の十字架の愛を信じることです。

そして日々神様の愛に感謝し、み言葉に触れ、祈りと賛美を捧げることで、私たちは神様の前で清くしていただけるのです。

 

オアシスとなる場所

神様は目で見ることはできません。だから、私たちは見えないものに目を留めることを学びます。教会でも自由献金はありますが、礼拝に集うことで金品を強要されることはありません。

お金がないからといって教会に集うことを拒絶されることもありません。教会は、神様の愛を求める人が安心して集うことができる場所です。

とある教会は、人数が少ない小さな教会で、会堂も、見た目は企業や学校の会議室のようですが、訪れる人の心のオアシスとなる場所でありたいと願っています。礼拝や集会にいつでもお気軽にお越しください。

長文お読みくださりありがとうございました。